彼女は唐突に言った。
「金木犀の匂いが分からないんです。」
私はへぇとだけ返した。
「外を歩いてて、金木犀のいい匂いがするってみんな言うじゃないですか。それを感じたことがないんです。」
彼女はさも他人を不思議がっているように続ける。
「どういう事ですか?」
この人は何を言いたいのだろう。金木犀なんてどこにでもある。あの匂いを知らずに生活する方が難しい。
「芳香剤とか、あるじゃないですか。金木犀の香りの香水もいい匂いだな、と思うんです。でも記憶に残らないんですよね。嗅いだことはある、はずなんですけど。」
「芳香剤の匂いは分かるんですか?」
「難しいですね。当てろと言われたら自信がありません。」
彼女は嘘をついている風でもなかった。
「たぶん、引き出しがないんだと思います。」
「なるほど。あなた自身が金木犀を持っていないから答え合わせできない、ということですか。」
彼女は頭がいいですね、と呟いた。ニート大学生の私には見合わない評価に、思わず身じろぎしてしまう。
「高校に植わってたんです。金木犀。」
「高校で嗅いだのに引き出しにはないのですか。」
どうでもいいはずの金木犀の話だが、もう少し聞きたくなった。
「あまり植物に興味がなくて。『金木犀の香り』ってただの慣用句だと思ってました。」
「変な人ですね。慣用句ならどういう意味だと思います?」
「『最上にエモいことのたとえ』」
吹き出した。それじゃあ頭が悪そうですよ。と言うと彼女も笑った。
「ねえ。辞書作りませんか?わたしとあなたの引き出しにない言葉だけを集めた辞書。どうせあなた退屈なんでしょう」
「あなたはまた突然思いついたことで人を巻き込んで。この前だって、」
「突然を実現できるなんて健康だと思いますけど」
彼女はわざとらしく小首を傾げた。トンボ玉のピアスが揺れる。この前ガラス工房に付き合わされたときからこのピアスは彼女のお気に入りになったらしい。
「来週、お互い一語ずつ持ってきましょ。ここで、同じ時間でいいですか。」
「仕方ないですね。」
じゃあそれで、と彼女は自分のコーヒー代600円を置いて店を出た。
彼女からの宿題のために、何か新しいことを始めなければならないような気がする。金木犀の話が辞書で流れてしまったのが惜しかった。