gintemaree’s diary

創作には番号をふっています。

ことばが足りないとき

お題をいただいたのでことばについて書きます。

今回は何かを結論づけるつもりはなく、とりとめのない感じになれば良いなと思う。

 

素敵な文章を書く友達がいる。彼が言うには、人となりは言葉によって表されるが、一方で大きな感情を言葉にした時、抜け落ちてしまう要素があるという。まず言葉未満の心の動きがあり、なかには言葉に整理されるものがあるが、そうできないものが確かにある、といった内容だったと思う。理解が間違っていたらごめん。

書いている内容とは裏腹に、言語化するまでとても丁寧に心と対話したことが分かる文章だったので、たくさん読まれてほしいなと思う。面白かった。

 

この要素が抜け落ちる感覚と同じものかは分からないが、感動に出会った時にことばが足りないと思うことがたまにある。

語彙の種類が足りない時。適切な表現が出て来ず、感動がどんな種類ものだったかを外に伝える力がない時は本当にやきもきしてしまう。引き出しがない状態である。どうしてこの日のために広辞苑を読み込んでおかなかったのかと遅すぎる後悔をすることになる。なんとなく私は感情はすべて言語化できるものと思っている節があり、語彙力が足りないことを悔しいと感じる。

感動が大きすぎた時もことばが足りないと思う。引き出しはあるが、サイズが合わず入り切らない状態である。ことばのスケールがどれもしっくりこなくて忠実さに欠けると思ってしまう。こういう時の感動は、時に壁となり、時に大きな波となって迫ってくるように感じる。ただ圧倒されているだけの人がそこにいる。結局「すごい」「すごくすごい」などのもう掃いて捨てらた方がいい無難な台詞しか出てこないのである。

文章に起こして見ると、どちらも他者から見れば同じことのような感じもするが、私の中では直感による明確な違いがある。

ただどちらにせよ、私は即興で気持ちを表現することがあまり上手い方ではないのだなと思う。それに加え、自分の直感に忠実な言語化になかなか固執していると思う。良い悪いではなく、傾向としてだ。

使い分けが必要に思う。自分にとっての「すごくすごい」と、受け取る人の「すごくすごい」は程度が違うだろう。私が「すごくすごい」と思ったものは、受け取る人によっては「すごい」程度のものかもしれない。ことばにできたとしても、私が受けた感動そのままを受け取ってくれる人は多くないだろう。自分だけが持つ感覚を言語化することが大事な場面なのか、その作業がいらない場面なのか。後者で失敗すると薄ぼんやりした人間であることが周りの人にバレてしまっていけない。

 

ことばとはハードなのだなと思う。情報を伝えるためのツールでありながら、個人の感覚に委ねられる部分が大きい、とても微妙で繊細なハードだ。だから人は迷ったり拘りを見せたりする。時には選んだ言葉から自分の心の裏が透けてしまう恐ろしさや、同じハードを使うことで逆に受け取り手による意味の肥大化や矮小化が起きてしまう不安定な一面があるが、丁寧に感情に向き合い言語化する作業は人として重要な作業ではないかと思う。たくさん本を読まなければいけない。