gintemaree’s diary

創作には番号をふっています。

[7]救済

梅雨真っ只中である。

私は就職活動を無事に終え、半パンにクロックスという諦めた装いで大学へ通っては卒業論文の執筆に勤む日々を送っている。

自習室の空調は設定温度が異常に低い。そのため雨の日は震えながら机に向かっている。我ながら滑稽な濡れ鼠である。

雨は憂鬱だ。好きではない。

 

白状すると、筆が進まない。中間発表まで1ヶ月を切ったものの、進捗は目標の半分ほどでしかない。

そういうわけで私は大学4年生にもなって毎日登校している。情けない話である。

 

数時間の格闘の末、幾分かの文献漁りが終わったのでよしとする。

時刻は午後6時を過ぎた。遅れの解消に至らないまま、尻尾を巻いて向かうはいつもの穂高である。

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雨に降られながら穂高に着くと、天候のせいか、いつもよりがらんとしていた。

店内には彼女がいた。私たちはお互いにこの店が行きつけなので、約束がなくて会うことが度々ある。こういう時はお互い干渉しないのがなんとなくのルールになっている。

私は彼女に会釈し、背中合わせに2、3離れた席でアイスコーヒーを注文した。

 

なんてことのない、平日の店内である。

アイスコーヒーは時間がかかる。客の話し声がぽつぽつと聞こえる、割りかし静かな穂高だ。

コーヒーを待ちながら、いつもより少ない客たちの、雨の音と混ざり合い雑多になった話し声に意識を溶かす。この店に通うようになってから身についた道楽である。

店内でされる色々な話をぼんやりと聞くと、私がいなくても円滑に進むであろうここにいる全員の人生に、私は今端役で出演しているという妙を感じる。私が卒論に追い詰められた今日は、関係のない誰かにとっては恋人に振られた日であり、また違う関係のない誰かにとっては初めて飛行機に乗って旅をした日なのである。

アイスコーヒーが届いた。

人は自分の人生の主役から逃れられない。だが誰かから見た世界なら取るに足らない存在になることができる。己の人生に相対性があることを実感することで、思案にくれ身動きができなくなる私が救われる。心に満ちてしまった不安や焦燥から一時的にのがれて、私のような端役の心配事など大したことではないと感情の嵐をやり過ごす。不健康な道楽である。

 

「・・・・・・ます?」

「うわっ」

いつの間にか帰り支度をした彼女が隣に立っていた。

「珍しいですね」

「ねえ聞いてました?」

訝しげな顔である。

「すみません、何でしょう」

「お誕生日おめでとうございます」

言葉とともにテーブルに名刺ほどの小さな包みが置かれる。

思い出しもしなかった。明日は私の誕生日だ。

「ありがとうございます。覚えていてくれたんですね。」

「ええまあ、折角ですし。フライングですけど」

では、と用件を済ませ踵を返す彼女に慌てて問いかける。

「あなたが、妙と感じるのはどんな時ですか」

彼女が振り返る。瞬き2回分の間。

「ゴミ袋の最後の1枚を開いたら、ゴミ袋の包装が1番目のゴミになるでしょう。その瞬間だと思います。」

今度こそ彼女は店を出た。

彼女がくれた包みには、ステンドグラスを摸した栞が入っていた。私は帰りの雨に濡らさないよう、それを鞄の内ポケットに入れてアイスコーヒーに手を伸ばした。