gintemaree’s diary

創作には番号をふっています。

英語教室の話

いつかの夏、仕事で心が折れて長期の療養休暇を取得した。

療養初期は上司との面談や精神科の診察が頻回にあった。消えたいと思いながら働いていたはずなのに、いざ休むと「前回より回復していなければならない」という強迫観念が強かった。ただ休むというだけのことが本当に難しかった。

できもしないのに規則正しい生活をしなければならないと思っていた。夜眠れない日はそのまま朝マックを買いに行った。眠れないのに朝が来て1日が始まってしまうことに絶望していた。でも朝マックを食べた後に寝るといくらかましだった。朝を制したような気持ちになれた。

元々朝食を食べる習慣がないくせに、1日3食摂らなければならないと思っていた。そういうことを繰り返し、初めの1ヶ月で5キロは体重を戻せてしまった。

心のどこかで「この休暇で何かを身につけなければならない」と焦っていた。それでたまたま新聞で見つけた全6回の英語教室に申し込んだ。

 

英語教室には私を含め6人の生徒がいた。みんな専業主婦やリタイア世代の人たちで、殆どが全6回のクラスを何セットも継続して受講している固定メンバーだった。その中にジェシカ(仮名)という人がいた。英語に訛りがあったが、誰よりも物怖じせずに喋りまくっていた。私はこの時期、人と話すのが人生で1番苦手だった。彼女は眩しいほどに快活だった。気を抜くと惨めな気分になりそうなほどに。

 

クラスは週に一度で、1週間の出来事を発表する時間があった。これが難しかった。みんなはどこかに旅行したり家のリフォームが終わらなかったり、地に足がついた人間の生活の話をしていた。私は焦りと隔絶の中をただ過ごしていたので、何も話せることがなかった。そもそも普通の人間が働いているはずの時間に、専業主婦でもない人間が受講しているのはかなり浮いていた。どうせ行きずりだと思い、自分がここにいる経緯を喋ったりした。マイ メンタルヘルス ワズ ブロークン。アイ トゥーク バケーション トゥー テイク ケア オブ ミー。センキュー。

 

固定メンバーの面々は、濃淡はあれど楽しみながら学びたい人々の集まりだったようで、クラスが終わった後も一緒に勉強会をした。普通にみっちり教えてもらった。

看護師の人がいて、友達とのつながりはあるか聞いてくれた。その人は孤立しなければ良いと言った。

 

6回のクラスが終わった後、ジェシカさんは私に「仕事に戻っても英語の勉強は続けなさい」と言った。みんなは継続して通うようだった。

仕事に行けない人間が血迷って申し込んだ付け焼き刃のようなスクーリングで身につけられたものなど、曜日感覚以外にあるわけがなかった。それでもただ通いきったことは偉かった。

 

復職してから異動までは、使える制度を思い切り使った。そして逃げるように今の部署へ来て2年が経とうとしている。忙しい日も寝付けない日もありはするが、大方はメリハリのある生活が叶っている。

語学学習は意外と続いていて、最近は外国語と手話を勉強している。余暇には予定が入り、寝るだけじゃない休日が増えた。もう私には話せることがある。

[10]ラクトアイス

長月。

私はじわじわと背中ににかく汗に気を取られつつ自宅へ急いでいた。

仕事の終わりに買い物をした帰り道。ナイロンの手提げには箱買いしたラクトアイスが入っている。

暦の上ではもう秋分に近いというのに、依然暑さとの戦いである。敗者がスーパーでアイスを買い、最近になって煩くなり出した蝉に囃し立てられながら帰路に着く。

 

夏は苦手だ。何より暑い。うるさく始まるくせに、その終わりは秋に押し出されていくように消えている。その往生際の悪さも好感が持てない。

かといって秋が好きなわけでもない。好むには短すぎる。

 

部屋の前に着くと同時に鍵が開き、目線より少し低い位置に男の顔がのぞいた。

「おせーよ」

これは私の家によく入り浸る同期橋本だ。

「上がってよ、狭い家だけど」

「いやお前の家じゃないから」

お調子者だが悪い奴ではない。

「なんか食う?焼きそばくらいしかないけど」

「お前の家じゃないのよ」

面白い奴ではある。

我が家の常連が過ぎて合鍵を持っている彼は、新人研修から親交を深め今に至る。

アイスの箱を開け、1本出して橋本にやる。お、サンキューと受け取る彼を尻目に自分の1本を取り、残りは箱ごと冷凍庫に突っ込む。

「お前、今日はシフトないの」

「明日まで休みよ。世界陸上見るからお前ん家に来た」

テレビを持たない橋本は、テレビを見るために私の家に入り浸る。お調子者だが悪いやつではない彼は、私の家に小さな貯金箱(油性ペンで「テレビ代」と書かれてある)を設置し、毎回そこに幾らかずつ払ってからテレビを点ける。

「すなわち泊まりじゃないか」

彼が小銭を律儀にちゃりちゃりとやって点けたテレビからはスポーツニュースが聞こえてきた。

アイスを咥え橋本の隣に一息つく。

 

「今日は女子やり投げか。いいじゃん」

「詳しいのか」

「いや、知らない」

適当な奴である。

「なんだよ」

「知らなくても楽しいのがスポーツだからな」

「ああ全般がうっすら好きな質だ」

「合ってるけど言い方どうにかならね?」

「本当に焼きそば作るよ」

「あ逃げた」

勢いをつけて立ち上がる。冷蔵庫に使いさしの人参と玉ねぎがあったはずだ。

橋本がぺたぺたとついてくる。

「陸上見なよ、作っとくから」

「んーなんとなく。悪いし」

行き届いた奴である。

そうであれば遠慮なく玉ねぎを切らせる。

「お代官様、目が痛いです」

「預かり知らぬ」

釣られて軽口を叩く。

誰かが62メートルを超えた。どうやら自己新記録らしい。

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「スポーツ観戦って面白そうだよな」

「盛り上がってるな」

「見に行かね?」

唐突なやつである。

「そんなに気に入ったのか」

「まだよ。でもこんなに大々的にやってるなら思いつきで行っても許されそうじゃん」

「お前もか」

「も?」

口が滑った。

「何でもない」

「あら何よ。水くさい」

聡い奴が目を細めてこちらを見る。

「お前以外にも唐突なことを言う人がいるんだよ」

脳裏に浮かんだ人物が「 突然を実現できるなんて健康だと思いますけど」と首を傾げたところで頭を振って追い出す。

「ふーん」

橋本からの追撃はなかった。

焼きそばを皿に等分して2人でもそもそ食す。

就職してから1年と半年が過ぎようとしている。一度も会っていない彼女は元気にしているだろうか。

「えー次は2年後か。北京だって」

読めない漢字と文章力

漢検二級を持っている。もう昔の話だが、高校入試を少しでも有利に進めるために猛勉強をして取った。

漢検二級の出題範囲は常用漢字すべて(高校卒業・大学・一般程度)だ。読み書きはそうでもないが、部首や四字熟語など知識を問われる部分が難しかったのを覚えている。

もちろん成人した今は相対的に凄い資格ではなくなった。ただ努力が綺麗に報われた経験として宝箱に入っている記憶だ。

因みにこの資格が活きた場面は特にない。寧ろ足りないくらいである。これは私の満足のためだけに後生大切にされるものだ。楽しいからみんなも受けたら良いと思う。

 

そういうわけで、日常において読めない漢字に出会うことはままある。「狭隘」「浚渫」などは仕事で出てきたが読めなかった。(どんな部署にいたか分かりやすい)

 

私は読めない漢字に出会うことが好きな質だ。

読めない漢字が出てくるということは、私が読めないこの漢字を使える誰かがいるということだ。私はそこに浪漫的な憧れを抱く。そちら側になりたいと思う。そういう人は総じて自由で楽しそうに見える。自身のことを説明できる語彙が私よりも多いことが羨ましいく、端的でしっくりくる表現を知っているのは気持ちが良いだろうと思う。私も味わってみたいのである。

 

上述の「読めない漢字が出てくるということは、」から始まる段落は、同じ内容を語彙を尽くして何度も書いている。私は文章を書くとき、1番大事な箇所は表現を変えて繰り返す。文の奥行きが出るようにウエイトを意識しているという感じだが、また漢検があっても私の力はこんなものである。

私の友人たちがもし主題を同じくして書くとしたら、その文章はどうなるだろうと考える。素敵な文章を書く友人たち、元気にしてるかな。

このようなことを考えたのは、数ヶ月前に谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を読んだせいだ。このエッセイ(と認識している)は、一つの主張を語彙や例えを駆使して繰り返している。彼の多様な表現を読み終えて最初に出た自分の感想が「この人意外と懐古厨だな」だったことがどうしようもなく惜しまれる読書体験だった。

かつては没入感が得られなくて苦手だったが、昔の文章はおもしろいと思う。

言葉が小難しいのに、その内容は「無理」「なんか良い」「最近の〇〇はしょうもない」だったりと、実は共感しやすい内容なところが面白い。当時どうだったかは知る由もないが、現代に通じる主張も言葉が古いと雰囲気が出る。

一方でおじさんぽい(スラング的な意味で)主張だなと思って調べると、本当に著者が40代おじさんの時に書いていたりする。内容にある今昔で共通した人間の性質と、古風な言葉遣いの塩梅が丁度良く感じるのだと思う。

何が言いたいかというと、私が知らない言葉を使えるあなたの語彙力は財産だということ。そういう話。

 

散文も散文、またいつか。次はGWに上げるはずだったフィクションを投稿すると思う。

[9]柊

※公然わいせつに関係する表現があります。苦手な人は避けてください。

 

 

どこをどう走ったか覚えていない。私は早鐘を打つ心臓を抱えて穂高の前にいた。言葉どおり死ぬ気で走り、あの男を撒くことに成功したようだった。

上がった息も整わぬまま店内にはいる。彼女は窓に近い席にいて、私が近付くとペンを置いた。

「あら大丈夫ですか」

私がただならぬ様子をしていたからだろう。彼女は意味もなく一度立ち上がり、冷たい飲み物の方が良さそうですねと対面に座った私にメニュー表を寄越した。

私は彼女に礼を言いつつアイスティーを注文する。

「そんなに急がなくても良かったのに。鬼でも出ましたか」

「鬼...といえば鬼かもしれません」

偶然の言葉遊びにどきりとする。

「早速ですが、ご注文の恵方巻き...あっ」

彼女に選んで貰うべく差し出した恵方巻きは、走ったせいで惣菜容器の中で大きく寄っていた。慌てて引っ込め、せめて綺麗な方を渡す。

「すみません、本当は選んでもらうつもりでしたが、全力疾走してきたので崩れてしまいました。」

「構いません。ありがとう」

彼女は袋の中身を覗き込み、少し満足げに頷いてこちらに向き直った。

アイスティーが届く。

「で、どうしたんですか。今日は時間を決めていた訳でもないのに、ものすごい息切れですけど」

「事情があるにはあるのですが、どう説明したものか」

不審な男から逃げた。だが直接危害を加えられていないので、話したとて分かってもらえるのか。そもそもこんな話をすること自体が彼女への加害になってしまわないだろうか。

「無理に話させたい訳ではありません」

堂々巡りする思考を気遣うように彼女が私を窺う。たった一言だが、彼女はまともに取り合ってくれるかもかもしれないという気になった。

「...良い話ではないし、拙い話になると思います。笑わないでくれますか」

「約束します」

彼女が姿勢を正す。

私はアイスティーで口を潤し、電車を降りてからここに着くまでのことを語った。

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彼女はひと通り聞くと、眉根を寄せてため息をついた。

「何と言うか、まずはちゃんと撒いて逃げられたのが偉かったというべきですね。怖かったでしょうに」

ああそうか、私は怖かったのか。

直接危害を加えられたわけではないから自覚していなかったのだろう、よく考えれば刑法犯なのだから怖くてもおかしくない話だ。

すっかり気にするなと言われるものと思っていたが、逃げたのは間違っていなかったようだ。

残りのアイスティーを流し込む。

「聞いてくれてありがとうございます。少し落ち着きました。」

「それは良かった。今日は早く休んでください」

「そうします」

それにしても気持ちが悪いですね、と彼女は頭を振り、カフェオレを飲み終えた。

 

私たちは荷物をまとめ、連れ立って会計を済ませた。

「あ、」

ドアに手をかけたが開けられない。

今外に出れば奴がいるのではないか、という思考に取り憑かれて足が止まってしまった。

「どいてください」

彼女は間の違和感から察してくれたらしかった。私の前に回り込み、そのままドアを開ける。

いつもの人通りがある日が暮れた御茶ノ水駅前だった。

「今日は送ってあげますよ」

「それは悪いです。あなたが奴に会うかもしれない」

東京とはいえ夜道である。

「それもそうですね。では帰り着いたら一報ください」

「そうします。お気遣いありがとう」

私たちはそれぞれ帰路についた。

迫る影帽子と、あの視線と手元が頭の中で何度も繰り返し再生される。

しかし彼女は私の言を矮小化せずに捉えた。私にとって十分過ぎる事実だった。

 

全ての十字路に戦々恐々としながら帰宅。鍵を閉めてその場で彼女に一報を入れると、返事がすぐにあった。

『お疲れ様。明日部屋から出られない時は迎えに行ってあげますね』

「ふ」

これはおそらく冗談だろう。

『いいえ、大丈夫です。お世話になりました』

部屋に入り畳んだままの布団に倒れ込む。なかなかに気力を消耗している。

目を閉じると先ほどの胸糞の悪さが蘇ってきた。それは奴の行いへの腹立たしさと、一方的に消費されたことへの胸糞の悪さ、逃げざるを得なかった自分への情けなさに変わっていった。

「あの野郎」

明日も扉を開けられないなら負けっぱなしのようで気に入らない。私は着替えを引っ掴み、銭湯へ向かってやった。

 

[8]鬼

※公然わいせつに当たる表現があります。苦手な人は避けてください。

 

 

2月3日。

ダウンジャケットはあった方がいいが、電車内だと暑い、くらいの豆撒き日和である。

私は1人で丸の内線に揺られ、日本橋へ向かっていた。

目的地は日本橋三越本店。百貨店の恵方巻きは如何なるものかと手に入れるべくやってきた庶民である。

時刻は夕方4時。退勤ラッシュが始まろうとする地下鉄を乗り換えてから一駅で降りる。門番のいない地下から三越に入ると、煌びやかな地下が広がる。季節柄、洋菓子の並びが特に華やかである。

目的の恵方巻きは彼女に頼まれたものだ。彼女は自分で買いたそうだったが、2月上旬の国家試験に備えるため、不本意ながら私を召喚したのだった。

恵方巻き売り場はごった返していた。私はずらりと並んだ中から2種類購入して帰路に着く。彼女も選ぶ楽しみくらいなければ気の毒だ、と動いてしまった食指を責任転嫁する。

 

帰りは気が向いたので銀座線で帰ることにした。地下鉄を降り、寒さにダウンの前を合わせてうつむきながら歩く。彼女は穂高で勉強して待っているらしい。

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夜道をしばらく歩いていると、私を追い越す1人の男がいた。並んだ瞬間に目が合う。特徴のない髪型と恰幅のいい肩の線。

男は早足で私を追い越し、その差20メートルくらいで再び私を振り返った。そこから少しずつ歩調を落としたようで、差が15メートルほどに縮まったあたりでまた振り返った。

なんだか不自然な様子である。私も後ろを振り返ったが誰もいない。確実に自分が見られていることが分かり、嫌な感じがした。

 

歩いては振り返るを繰り返す男は、同じ方向に歩きながら少しずつ私に近づいてくる。振り向く度に速度を調整しているようだ。肉食動物の獲物にされたかのような不快感が胸に広がる。

気味が悪いので男とは反対側の歩道に移動する。男はまだ私を見やりながらゆっくりと歩いている。

目を合わせないように歩道の反対側から早足で追い越し返す。このような時は歩みに比例して息が浅くなるのか、と妙に冷静な自分がいる。

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時間にしたら幾許もないかもしれない。男を追い越してからいくつか目の街灯を通り過ぎ、自分の影が前に伸びていくとき、足元にもう一つ影帽子が飛び込んできた。

後ろに付けられたか。

振り向くとやはりその男だった。その視線は私にあり、その右手は社会の窓から覗く局部を慰めていた。

「うわっ」

叫ぶより先に身体が動いた。私は脱兎の如く走り出した。

 

 

[7]救済

梅雨真っ只中である。

私は就職活動を無事に終え、半パンにクロックスという諦めた装いで大学へ通っては卒業論文の執筆に勤む日々を送っている。

自習室の空調は設定温度が異常に低い。そのため雨の日は震えながら机に向かっている。我ながら滑稽な濡れ鼠である。

雨は憂鬱だ。好きではない。

 

白状すると、筆が進まない。中間発表まで1ヶ月を切ったものの、進捗は目標の半分ほどでしかない。

そういうわけで私は大学4年生にもなって毎日登校している。情けない話である。

 

数時間の格闘の末、幾分かの文献漁りが終わったのでよしとする。

時刻は午後6時を過ぎた。遅れの解消に至らないまま、尻尾を巻いて向かうはいつもの穂高である。

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雨に降られながら穂高に着くと、天候のせいか、いつもよりがらんとしていた。

店内には彼女がいた。私たちはお互いにこの店が行きつけなので、約束がなくて会うことが度々ある。こういう時はお互い干渉しないのがなんとなくのルールになっている。

私は彼女に会釈し、背中合わせに2、3離れた席でアイスコーヒーを注文した。

 

なんてことのない、平日の店内である。

アイスコーヒーは時間がかかる。客の話し声がぽつぽつと聞こえる、割りかし静かな穂高だ。

コーヒーを待ちながら、いつもより少ない客たちの、雨の音と混ざり合い雑多になった話し声に意識を溶かす。この店に通うようになってから身についた道楽である。

店内でされる色々な話をぼんやりと聞くと、私がいなくても円滑に進むであろうここにいる全員の人生に、私は今端役で出演しているという妙を感じる。私が卒論に追い詰められた今日は、関係のない誰かにとっては恋人に振られた日であり、また違う関係のない誰かにとっては初めて飛行機に乗って旅をした日なのである。

アイスコーヒーが届いた。

人は自分の人生の主役から逃れられない。だが誰かから見た世界なら取るに足らない存在になることができる。己の人生に相対性があることを実感することで、思案にくれ身動きができなくなる私が救われる。心に満ちてしまった不安や焦燥から一時的にのがれて、私のような端役の心配事など大したことではないと感情の嵐をやり過ごす。不健康な道楽である。

 

「・・・・・・ます?」

「うわっ」

いつの間にか帰り支度をした彼女が隣に立っていた。

「珍しいですね」

「ねえ聞いてました?」

訝しげな顔である。

「すみません、何でしょう」

「お誕生日おめでとうございます」

言葉とともにテーブルに名刺ほどの小さな包みが置かれる。

思い出しもしなかった。明日は私の誕生日だ。

「ありがとうございます。覚えていてくれたんですね。」

「ええまあ、折角ですし。フライングですけど」

では、と用件を済ませ踵を返す彼女に慌てて問いかける。

「あなたが、妙と感じるのはどんな時ですか」

彼女が振り返る。瞬き2回分の間。

「ゴミ袋の最後の1枚を開いたら、ゴミ袋の包装が1番目のゴミになるでしょう。その瞬間だと思います。」

今度こそ彼女は店を出た。

彼女がくれた包みには、ステンドグラスを摸した栞が入っていた。私は帰りの雨に濡らさないよう、それを鞄の内ポケットに入れてアイスコーヒーに手を伸ばした。

 

[6]惹起

1月も残り少ない午後3時。穂高の席につきホットコーヒーを頼む。

鞄から格好をつけた文庫本を取り出しつつ携帯のメッセージを確認する。彼女の到着まで10分弱といったところか。

待つのは好きな方である。相手がいつ到着するか分からない、アンコントロールさが気に入っている。

本を開き、ページを捲る。栞代わりに折ったページの線を無意識に指で撫でつつ読み始める。

今日は本当に寒い。ページを捲る指の感覚も鈍い。

 

「お待たせしました」

顔を上げると、彼女がキャメル色のコートを脱いで丸めていた。

「いいえ」

「何を読んでいたんですか」

谷崎潤一郎に挑戦しています」

彼女は瞬きを一つして「良いですね」と言った。

「まだ短編を2つ読んだばかりですが」

「良い趣味だと思います」

ついつい興味が無ければ聞いても仕方がないような事を口走ってしまうが、彼女は律儀に返事をした。

「授業が少し長引きました」

「お気になさらず。何か飲みますか?」

「ありがとうございます。カフェオレにしようかな」

彼女は注文を済ませると、あくびを一つした。

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「お正月はご家族と会えましたか」

「ええ。久しぶりに帰れました。あなたは?」

「そうですか。私も帰りました」

まあ実家が近いので特別なことではないですけど、と彼女は届いたカフェオレをすする。

「その本。気に入った短編はありましたか。」

「うーん。どれも形容し難い気味の悪さがあります。」

「ああ確かに。もしミステリーなら御法度な話もありましたね。」

興味があるのかないのか、何か別のことを考えているような口ぶりである。

 

沈黙。

 

決して心地悪い訳ではないが、何かを切り出すタイミングを見計らっている時のそれだった。

 

そして私はそういう沈黙が妙に耐えられない質だ。

「....今度は何を思いついたんですか。」

「勘がいいですね。」

「鍛えられてますから。」

彼女がにやりと笑った。待ってましたと言わんばかりの笑みである。

「寒い時にしか見られないものがあるんです。」

ほら来た。

「イルミネーションか何かでしょうか。」

ノンノン、と首を振る彼女の両の口角が上がる。甘かったようだ。

「栃木に行きます。」

毎度突拍子もない彼女のはかりごとだが、今回は群を抜いている。

「聞き間違えでなければですが、入念な計画が要ります。いつ行くつもりですか。」

彼女のことだ、もう決め込んでいるのだろう。

「2月頭といったところでしょうか。第1週目が寒いようなのでそこで。」

聞き間違いではなかった。そこからの綿密な会議は日暮まで行われた。