※公然わいせつに関係する表現があります。苦手な人は避けてください。
どこをどう走ったか覚えていない。私は早鐘を打つ心臓を抱えて穂高の前にいた。言葉どおり死ぬ気で走り、あの男を撒くことに成功したようだった。
上がった息も整わぬまま店内にはいる。彼女は窓に近い席にいて、私が近付くとペンを置いた。
「あら大丈夫ですか」
私がただならぬ様子をしていたからだろう。彼女は意味もなく一度立ち上がり、冷たい飲み物の方が良さそうですねと対面に座った私にメニュー表を寄越した。
私は彼女に礼を言いつつアイスティーを注文する。
「そんなに急がなくても良かったのに。鬼でも出ましたか」
「鬼...といえば鬼かもしれません」
偶然の言葉遊びにどきりとする。
「早速ですが、ご注文の恵方巻き...あっ」
彼女に選んで貰うべく差し出した恵方巻きは、走ったせいで惣菜容器の中で大きく寄っていた。慌てて引っ込め、せめて綺麗な方を渡す。
「すみません、本当は選んでもらうつもりでしたが、全力疾走してきたので崩れてしまいました。」
「構いません。ありがとう」
彼女は袋の中身を覗き込み、少し満足げに頷いてこちらに向き直った。
アイスティーが届く。
「で、どうしたんですか。今日は時間を決めていた訳でもないのに、ものすごい息切れですけど」
「事情があるにはあるのですが、どう説明したものか」
不審な男から逃げた。だが直接危害を加えられていないので、話したとて分かってもらえるのか。そもそもこんな話をすること自体が彼女への加害になってしまわないだろうか。
「無理に話させたい訳ではありません」
堂々巡りする思考を気遣うように彼女が私を窺う。たった一言だが、彼女はまともに取り合ってくれるかもかもしれないという気になった。
「...良い話ではないし、拙い話になると思います。笑わないでくれますか」
「約束します」
彼女が姿勢を正す。
私はアイスティーで口を潤し、電車を降りてからここに着くまでのことを語った。
彼女はひと通り聞くと、眉根を寄せてため息をついた。
「何と言うか、まずはちゃんと撒いて逃げられたのが偉かったというべきですね。怖かったでしょうに」
ああそうか、私は怖かったのか。
直接危害を加えられたわけではないから自覚していなかったのだろう、よく考えれば刑法犯なのだから怖くてもおかしくない話だ。
すっかり気にするなと言われるものと思っていたが、逃げたのは間違っていなかったようだ。
残りのアイスティーを流し込む。
「聞いてくれてありがとうございます。少し落ち着きました。」
「それは良かった。今日は早く休んでください」
「そうします」
それにしても気持ちが悪いですね、と彼女は頭を振り、カフェオレを飲み終えた。
私たちは荷物をまとめ、連れ立って会計を済ませた。
「あ、」
ドアに手をかけたが開けられない。
今外に出れば奴がいるのではないか、という思考に取り憑かれて足が止まってしまった。
「どいてください」
彼女は間の違和感から察してくれたらしかった。私の前に回り込み、そのままドアを開ける。
いつもの人通りがある日が暮れた御茶ノ水駅前だった。
「今日は送ってあげますよ」
「それは悪いです。あなたが奴に会うかもしれない」
東京とはいえ夜道である。
「それもそうですね。では帰り着いたら一報ください」
「そうします。お気遣いありがとう」
私たちはそれぞれ帰路についた。
迫る影帽子と、あの視線と手元が頭の中で何度も繰り返し再生される。
しかし彼女は私の言を矮小化せずに捉えた。私にとって十分過ぎる事実だった。
全ての十字路に戦々恐々としながら帰宅。鍵を閉めてその場で彼女に一報を入れると、返事がすぐにあった。
『お疲れ様。明日部屋から出られない時は迎えに行ってあげますね』
「ふ」
これはおそらく冗談だろう。
『いいえ、大丈夫です。お世話になりました』
部屋に入り畳んだままの布団に倒れ込む。なかなかに気力を消耗している。
目を閉じると先ほどの胸糞の悪さが蘇ってきた。それは奴の行いへの腹立たしさと、一方的に消費されたことへの胸糞の悪さ、逃げざるを得なかった自分への情けなさに変わっていった。
「あの野郎」
明日も扉を開けられないなら負けっぱなしのようで気に入らない。私は着替えを引っ掴み、銭湯へ向かってやった。