gintemaree’s diary

創作には番号をふっています。

ルッキズムとアイドルカルチャーの折り合いを考えたら血の気多くなった

はじめに、アイドル門外漢の私がこんなこと書いて良いのかは自信がないが、どうぞお付き合い願います。

タイトルはもらったお題から。

Twitterであんなことやこんなことを言っている割に、私はルッキズムについて無知だった。

正確に言うと、私は社会に温存されるさまざまな差別について、あまり切り分けずに捉えていた。だから外見至上主義としてルッキズムだけを切り取った思考に慣れていなかった。そんな感じ。

さすがに少し勉強して、何となく自分の考えがまとまったのでようやく書いてる。お題をくれた友達、遅くなってごめんね。

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結論から言うと、現状ではファンが自重することこそが折り合いである、というのが私の考えだ。

 

まず、勿論アイドルは商業だ。表に出て夢を売る側と、裏で諸々をプロデュースする側の2者で作っている、きちんと設定のある人物像だ。どのようなコンセプトのなのか、個人なのかグループなのか、表に出る人間の素をどこまでを売り物として見せるか(キャラ設定)、売り方はどうか、といったことがそもそも決まっているものだ(多分)。

対してルッキズムは、世の中の普通とされているものから見た目がはみ出している存在に対して私たちが無自覚に向けてしまう視線であり、即ち差別である。

ここで、表に出る側のアイドルが見た目を商業的に使っていることと、外見による差別が不適切であることがぶつかるのでは?という話。私はお題をそう理解した。間違ってたらごめん。

 

確かに、顔が良い・痩せている・腹筋が割れているなど、見た目が良いことは売れる要因としてとても大きい。人間は見た目を消費してしまうものだと分かっているのに、その見た目を使って稼ぐのはそもそも良くないという考えもあると思う。

でもそんなこと言ったら芸能はすべて不適切だし、何より見た目を使って稼ぐ事が禁止されたとしても、見た目に対する差別はなくならない。見た目を売るのが悪いと言ったところで何にもならないのでは?と思う。

それに表に出る側のアイドルも見た目だけを売っている訳ではない。歌やダンスの実力、トークの内容、ファン対応での自分の魅せ方など、要素は沢山ある。

そうは言っても、やはり見た目は大きい。表に出る側のアイドルは容姿への言及を避けられない。商業だとしても、容姿への言及は表に出るその人に対するものだ。Vtuberに「太った?」と言わないのに生身のアイドルに言えてしまうのは、ファンがルッキズムを内面化している証拠だ。あと「背低くてもかっこいい」のような一言余計屋さんもルッキズムの弊害だなと思う。

そういうわけで、産業の構造上大きい権力(お金)を持っているファンが自重するのが最もルッキズムに消極的にあれる方法ではないか、現状そこを折り合いにするしかないのではというのが私の意見だ。

私は本来ならアイドル側がそれぞれ「消費の仕方」的なものを打ち出して、ファンがルールを守って応援する形が楽なのになと思う。ウマ娘のファンアートが性的でないものにとどまる理由は、そういう契約でコンテンツ化されていることを運営が周知しているからだ。世の中モラルはなくても決まりは守れるタイプの人間は結構いる。でも現実的には、アイドル側が決まりを作ったところで想定外の消費の仕方が生まれるだろうから、あまり意味はなさそうに思う。

アイドルが沢山いる昨今、アイドルに求められるものも多岐にわたる。昔と比べて、親しみやすさ、庶民感といった身近さの基準に比重が置かれるようになり、いかに恋人っぽい存在であるかが全体として求められるようになってきた気がする(多分)。応援している・お金を出している事実を盾に、あなたの為を思ってという体で見た目に言及するのは、単なるハラスメントである。アイドルが容姿を売っているからといって正当化できる行為ではない。

自分が思うアイドル像を「普通はこうだ」と生身の人間にぶつける前に、そういう人は静かに離れるなどした方がいい。アイドルはファンを選べないが、ファンが選べるアイドルは沢山いる。好きなアイドルが何を売っているかをよく見て、わきまえるのもファンの姿勢のうちだと思う。

 

 

 

参考

好井裕明「他者を感じる社会学 差別から考える(2020年)」筑摩書房

femme fatale 「酔っぱらってアイドルとオタクについて本音で語った【戦慄かなの・頓知気さきな】」https://youtu.be/jSzuz2SztTU